Blowin' the Wind

 

 

キッチン
10月1日(日)2:38PM

「あぁ、・・・い、・・・」
震える指先が宙を漂う。荒い呼吸も2度3度、途絶える。
「シエラ!」
耳に心地よい響きが繰り返されるが、懇願にも似た表情の額に汗が浮かぶ。
必死に口にするのはおぼろげに見える人の名ばかり。
「し、ど・・・、」
息が苦しくて、言葉が続かない。
背中を支えられたき、全身を雷が貫いた。
「い、・・・」
指先が求める人の腕を探り当てたが、砂の城が波に洗われるように全身の力が抜けてしまった。

 

 

 

 

 

 

ぼんやりとあたりを見渡す、ここがどこだかわからない。
ふわりふわり、からだが空間に漂っていた。
視界は透明な蒼。
遠くで誰かの声がする、シエラ・・・それは何?
聞こえるのはそれだけ。
何度もなんども、同じ人の声がする。
分らない、けれど胸が熱くなる、どうして?

手を明かりのするほうにかざしてみると、指先がぼやけていた。
あれ?
あたりが急に暗くなって、左足に激しい痛みが走った。
声が出ない。
「いたい!」
声が、出ない!
「いたいよ!」
声が!出ない!!
体が幾重にも折りたたまれてゆく、これは錯覚?
どんどん押さえつけられて、小さな一点に押し込められてしまった。
出られない!たすけて!たすけて…
手を差し伸べてくれる人がいるのに届かない。
お願い、たすけて!

 

 

 


ロケット村 
10月4日  7:51 AM

 

すっきり晴れ渡った青い空に、シーツが映える。
からりと乾いた空気が肌に心地よくてつい鼻歌が出てしまった。
タイニーブロンコの赤、洗濯物の白、そして空の青。
てきぱきと家事をこなすのは本当に気分がよい。
村はようやく人の気配がしてきた午前8時。
さて次は部屋の掃除だ、今日は天気もよいし普段できないところもやっつけてしまおうか。いや、あまり騒々しくしては、アイツが起きてしまう。


腕まくりをしたシドは、洗濯かごをぶらぶらさせて中庭から戻ってきた。
ベッドルームを覗くと、シエラはすやすやと眠っている。窓際にはフレッシュ・ラベンダーが逆立ちして吊り下げられている。静かに乾きながら、眠りを誘う魔法を封じこめてゆく。
ほっと安心すると、自然と笑みがもれた。静かに出来ることといえば、あれだ。
シドはロッカーからモップを取り出して、ダイニングの床を磨き始めた。
近頃の船は甲板磨きなどしないから、ある種ストレス解消だ。

オヤジに教えられた、船乗りに一番大切なこと、それは甲板掃除だと。
海を渡っていた昔から、大空を、そして宇宙を行くようになっても忘れちゃいけない、俺たちはこうして自分の、仲間の命を守ってきたと。

無心に床を見つめているが、大して広くもないダイニングはすぐに制覇してしまい、シドは次なる目的地である自分の小部屋に進んだ。

まだ8時すぎなのに、ベッドルーム以外は片付けも済んでしまった。
タバコをくわえたシドは、朝食の残りのちょっと煮詰まったコーヒーを
カップに注いだ。
シエラのために用意したモーニングプレートは、取り残されるようにテーブルに置いてある。
いいさ、夜中に何度か目が覚めたのだろう。まだちぃと痛いだろうし、オレ様も当分は休業だから時間は気にしなくていいんだ。シドは吸殻を灰皿に押しつけると、トレーにラップをかけて冷蔵庫にしまいこんだ。

新聞に目を落としたシドは、オレ様の意外な一面を見て驚いたか、と、
誰に言うというわけではないが呟いた。
シエラがどうしたって?
いや、大したことはねぇんだが。

 

 

 

 

 

 


ロケット村 診療所
10月1日(日) 4:03 PM

メカニックのシエラが利き腕を骨折した。
左足親指も折れていた。

何のことはない、台所の高い戸棚から何かを取ろうとして踏み台から転げ落ちたようなのだ。

「ようなのだ」というのは、誰も現場を見ていなくて、第一発見者のシドがそのように説明している、だけだから。
異様な物音がして中庭から戻ってみると、床に転げているシエラと、半開きの高い戸棚。
ひっくり返った踏み台、作りかけの菓子…。
状況証拠で、おおよその検討はついた。

助け起こした自分の腕の中で気を失ったシエラに、伝説のパイロットはさすがに冷静だった。

体温低下を防ぐために保温。
出血の有無、骨折部分を確認。
呼吸数・脈拍の把握。
手の甲に書きとめられた数値に、
「私も研修医時代に躾られましたが、」
他人ならともかく、身内のアクシデントとなると
取り乱しこそすれ、「ここまで出来ませんよ。」
ドクターはすっかり感心してしまった。
明日から船を降りてもどこでだって雇ってもらえると、誉めてもらった。
「今すぐ看護士さんね」
涼しい笑顔でクシャナも言った。

だから処置も極めてスムーズに済んだ。

額の汗を拭いたドクターは、赤いランプの消えた部屋から出て、笑顔を見せた。
「まぁ〜ったく、ノロマのくせに高いところに昇るからだ!」

口の悪い男だ。

続いてナースのクシャナもマスクを外しながらシドを見た。さらさらのブロンドをきっちりまとめると印象がガラリと変る。白いうなじが特別美しい。
耳の付け根にほんのり赤い…
でも今日はそういうことに気が廻るわけがない。
「麻酔から覚めるまでは安心できないから、居てあげてね」
腕にそっと触れた手がぞっとするほど冷たかったのが、後から思えば兆しだった。

滅菌された白衣に袖を通した。

「大丈夫よ、命に別状はないから、そう緊張しないで」
静かに眠るシエラの傍らで態度が硬かったようで、クシャナがくすっと笑った。白衣に糊がききすぎているからだと、シドは言い訳をした。

ほんのりと消毒液の匂い、左足親指と右手首の複雑骨折、シドはドクターの説明を思い起こした。
「そうですね、リハビリまで3週間ぐらいでしょう。先のことはまた先になったら考えればいいでしょう。大丈夫ですから、焦らずに。」
ということは、オレ様は暫く休業だ。
ふふ、このオレ様がとことん看病してやろう。
嫌だとかぬかしやがったらどうしてくれようか。
シエラのやつめ、オレ様には生活能力がないなんて言いやがったからな。
見てろよ、掃除、洗濯、料理に看病…おい、そこのお前!お前だ。
読者一同、お前らなんで笑うんだ!?
やい、きさま!鼻で笑いやがったな。
見てろよ!
オレ様に比べて、うちの亭主ときたらなんて泣きごとを言わせてやるぜ!!
おっと、病院で騒ぐのはマナー違反だ。
静かに出来ねぇんなら帰った帰った!

 

 

 

 

 

 

診療所 病室
10月1日(日) 5:01 PM

覚醒する意識は風に翻弄される蜘蛛の糸のようだ。
見守る人に気付かないでただ瞼を開いたり閉じたりを繰り返す。
シエラの目覚めを待つシドは、ドクターの支持通り何度も名前を呼んだ。
この女の名前をこんなに連呼したのはこれが初めてだ。
シドは2人きりなのをいいことに甘く、優しく、心を込めて呼びかけた。

253回目の呼びかけに、シエラは応えた。得意の笑顔で迎えてやろう、そう思ってシドは瞳に力を込めた。
「大丈夫か、」
言いながら頬に指先を伸ばしたら、シエラは僅かに身を引こうとした。
拒絶の態度だった。体の自由が奪われている状態なのでそれが精一杯だったのだろう。
「シエラ?」
思いがけない反応に、シドは動揺を隠せなかった。「お前、…オレは怒ってなんかいないぞ、謝らなくたっていいんだぜ」
自分が何を言っているのか分っていなかった。シエラは、困惑の目でシドを見上げるばかり。
「あの、」
ようやく口を開いてくれた。
「足の指が折れてるんだ、右の手首にひびも入っているからな。(複雑骨折は内緒だぜ、あれは聞こえが悪い)なに、心配はいらねぇ、オレ様がばっちり面倒見てやるからよ。」
これで安心しただろう、シドは夕暮れの海のようなシエラの豊かな髪をくしゃくしゃとかきまわした。
本人はこれでも思いを込めているつもり、彼なりの愛情表現なのだ。
犬の頭を撫ぜているみたいだとパートナーには不評だが。
兎にも角にも、無事に目を醒ました。
自分でもびっくりするほどの大きな溜息に、苦笑しながら愛しさが募った。
だが今は目先の骨折を見たい!
「どれ、見せてみろ」
マヌケの結果を笑ってやろうと、シドは足もとの毛布をちらとめくった。
「ちょ、ちょっと、やめてください!!」
ぽかんと口をあけるだけのシドは、恐怖にも似たシエラの顔を眺めた。
「お前、何言ってんだ?」
一緒に暮らしている間柄で、何を今更…シドは次の言葉を見失った。

膝近くまでギブスをつけられて、右手も肘より上まで固定されているのに、シエラは身を起こそうとした。

「うっ、」
みるみる脂汗が浮かぶ、涙まで浮かんで苦痛に顔を歪めた。
痛いのに決まっている。シドは思わず語気を荒げた。
「馬鹿か、おとなしくしろ!そう度々付き添ってなんかやらねぇぞ!!」
怒鳴ってから、シエラが麻酔から覚めたばかりだったと思い出して、ああ、いけねぇと、気を取り直した。それで、努めて優しく、小声で言った。
「落ちつけ。無茶すると、ちゃんと治らねぇぜ。」
寝かせなおしてやろうと、手を出した。
わきの下へと手を渡せば胸に触れるのは当たり前なのだが、シエラは赤面しながら抗議の表情を浮かべた。
「ん?アバラも痛むのか?」
そう言いながらも、ナニカヘンダ、さすがのシドも疑惑の目でシエラを見下ろした。

もう1度、傷の様子と経過について話してやったが、シエラは安堵の表情を浮かべない。
それよりも、口を聞かないのだ。
シドはじれてシエラに詰め寄った。
「おいシエラ!返事ぐらいしたらどうなんだ!」
それでもシエラは困惑の表情でいるばかりなのだ。しかしおずおずと口を開いたシエラに、シドは血の気が失せてしまった。
「すいません、でもどうしてあなたが私のお世話をしてくださるのですか?」
震える声で、努めて冷静にゆっくりと尋ねたシドだが、口はカラカラになっていた。
「おまえ、オレをわすれたのか、おい、シエラ」
要約すればそのように言った。

「シエラ?」
愕然とするシドに向かって、自分の名前を不思議そうに口にした。

ナースコールをどうやって押したのか、シドは全然覚えていなかった。

 

 

 

 

 

 

ゴンガガ チョコボファーム
10月2日(火) 11:34 AM

「…うん、じゃあなるべく早く、…いまはレースもないから」
電話を切ったユフィは、呆然と立ち尽くして瞬きをするのを暫し忘れた。
雑誌を閉じたクラウドがいぶかしげにユフィを見た。
ティファからの電話とわかっていたから、興味のないふりをしていた。
でも、どんどん声をひそめるから、気になるのは当然だと、クラウドはちょっと口をとんがらせてみせた。
「ユフィ、顔色悪いぞ。シエラさんがどうしたんだ?」
声をかけられてようやく我にかえったユフィが、ゆっくりクラウドを見た。
「ねぇ、明日出かけたいんだけどさぁ、」
こう言い出したらもう決定だ。

「うん…いいよ、でもムーじゃなくてマーで行けよ。」
山川チョコボのマーは、慎重な性格だからユフィ1人で行くのなら適任だと、クラウドは判断した。
2人揃って行くわけにはゆかない、生き物に関わっているからそれはしかたのないこと。

ユフィは、もう荷造りにかかっていた。
ゴンガガの先に世界で2つ目のチョコボ・ファームを開いたユフィとクラウドは、コレルのティファからの電話で、シエラの事故を知った。足の骨折はともかく、メカニックが利き腕に怪我をした。それらは外傷だから、治療すればそれなりに治る。

記憶喪失だなんて。

 

 

 

 

 

 

同 チョコボファーム
10月3日(水) 5:31 AM

夜明け前、ログハウスのドアが開く。
大きなリュックを担いだユフィは、クラウドに連れられてチョコぼうから出てきたマーの首筋をこちょこちょした。
するとマーは跪いて乗り手を迎えた。
強くたくましい羽根は薄緑色。
すらりと立ち上がると、遠出の予感に身震いをした。

今週から洗濯当番のユフィが張り切って洗うから、すっかり袖が伸びてしまった。
トレーナーの長袖をたくし上げながら、クラウドは手綱を渡した。
「じゃあ、気をつけて。」
吐く息がもう白い。
ちょっとそこまでお使いに行くだけような風情のユフィは、
「おーけー、ついたらすぐに電話するし、留守番頼んだよ。」
振りかえりもせずに走り出した。クラウドの心配をよそに、当のユフィは「当番シフトを誤魔化そっと!」などと不届きな独り言を含んで口元を緩めていた。

風に翻るマントがちらちらするのも、じきにわからなくなってしまった。

クラウドは自分の手をするりとすり抜けるこの相棒のことが、ひどく気にかかるようになっている。
それをどう伝えればいいのか、とても悩ましくてさらに寡黙になる自分が悔しかった。今回も揃って出かけられないことは分りきっているのに、1人でロケット村まで行くというのがとても心配なのだ。
心配だなんて、
…あいつは旅には慣れているから、心配してやることなんて、特別あるわけもないのに。レースのときだって、あいつが留守番をすることだってよくある。

全部のチョコボを、ゴールドソーサーにある厩舎に預ければよいだけだ。
多少、費用はかかるけれどそれだけだ。
それをすれば次回のレースに影響がでるから、費用はともかく余程のことがなければそこまではしない。

いっしょに行きたい、そう言えばいいだけなのだが……。
「駄目だよ、1人でそんな遠くへなんて」と言えばいいのだ。

かといって留守番を頼めば、残してゆくのがまた心配…。

とにかく、今回はユフィがお見舞いに行くことになったのだ。

自分にユフィの行動を制限する何の権限もないことも知っていた。

俺はユフィのことが……そんなに信用できないのかな。

そうじゃなくって。

 

 

 

 

 

 

ロケット村  診療所
10月3日 1:48 PM


ひと抱えもあるフレッシュ・ラベンダーの花束は花瓶が間に合わず、ブリキのバケツに生けられて部屋の隅にそっと置かれた。
「気持ちが落ちつきます」
無表情に言うのはいつもの通りだ。爽やかな空気がほのかにシエラを包みこむ。
僅かに口元がほころんだ。
見舞いに来たヴィンセントに謝意を述べてはいるものの、シドはなんとも割りきれない気分だった。
3日前からつきっきりのオレ様には見せなかったというのに、シエラめ、花束を膝に乗せられて嬉しそうな顔をした。もしかしたら、シエラはオレ様のことだけを忘れちまったのか?

早くもシドは看病疲れのようだ。

潜在意識のなせる技ではないのか、ヴィンセントは口には出さなかったが瞳の端で念力にのせた。
シエラには悪いが……、
これまでのシドの行状を知っていれば…喉下まで出そうになるのは、
ヴィンセントだけではなかったかもしれない。

心配ばかりかけおって。
お前のことなどいっそ忘れてしまったほうが
彼女とて気が楽に違いない…。
シエラの記憶が戻ったら真っ先に突っ込んでやろうと、なぜか沸いてくる怒りにも似た感情を腹に収めて、ヴィンセントは病室を辞した。

 

 

どどどど・・・!

背筋を冷や汗が伝う、
この感じ!
ヴィンセントはとっさに身を翻した、が。
「こんちわ!」
いい終わらないうちに、診療所のドアノブがヴィンセントの丹田を直撃した。
「ぐぅ、」
うめき声が床に転がった。
このまま変身するのか…、薄れゆく意識の中で確かに懐かしい顔を見た。近寄らないでくれ、もう私は変身などしたくはないのだ…

おかしい。

ほどなく、エビのように背を丸めている自分に気がついた。
ヴィンセントは変身しなかった。

鼻をすすりながらもう1度くしゃみがして、
「あれぇ!?ヴィン!」
素っ頓狂な声を出してしゃがみこんだ。
「久しぶり!元気だった?」
普通、床に転がって苦しむ相手に「元気だった?」とは言わない。
やっぱり…ユフィだ。
こめかみに走る電撃はようやく収まってきた。
腹部を押さえながら起きあがったヴィンセントは、不機嫌だった。

 

 

 

 

 

 

 

上海亭 パブ
同日 1:59 PM

上海亭に場所を移しても、ヴィンセントはまだ不機嫌だった。サンドイッチを頬張るユフィを見ようともしない。
苦いにがいコーヒーをブラックで、飲むでもなく、香りに包まれるに任せて無言であった。
「で、どうなの?」
18にもなって、口にモノを入れたまま喋るユフィだ。
もがもがと騒々しいことこの上ない、久々にユフィを近くで眺めるヴィンセントはますます不愉快で不機嫌だった。そんな2人をにこやかに見守るマスターは、
「野菜ジュースはいかがですか」
などと、悠長なことを言う。
普段は表情のないヴィンセントが、今日は眉間にしわを1本寄せて、下唇を僅かに噛んでみたり、しぱしぱと瞬きをしてみたり。
マスターは笑いをこらえるのに必死だった。
「マスター、何かおかしいか?」
苛立ちを隠しきれないのか、突っかかるヴィンセント。
「へ?何かおかしいの?」
気をそがれるというか、力が抜けるというか、ますますハラが立つというか。
「ユフィは黙っていてくれ」
ようやく一言だけ…。
けれどコーヒーカップに向かって「黙っていろ」と言われては、さすがのユフィもいい気はしない。ヴィンセントのほうに向き直って食べかけのサンドイッチを放り出した。
「ちょっと、ヴィン。アタシの聞いたことには答えないでさぁ、違う話しといて『黙ってろ』だって?」
「…………」
大いなる沈黙、それでもマスターは何でもないように今夜の仕込みの手を休めない。大きく深呼吸すると、ヴィンセントはユフィをみた。
眼力にユフィが一瞬怯む。
視線をそらすことができないというのに、オレンジジュースを手繰り寄せ、とんがらせた口元にストローをくわえた。
「器用なものだ。」
ふっと、呆れたようなヴィンセントのまなざしがあたたかくなった。
マスターは、厨房の奥に消えた。

 

「私も先ほど聞いたばかりなのだが……」
冷めかけたコーヒーを一口すすって、ヴィンセントは溜息をついた。

――中庭でタイニーブロンコの相手をしていると、尋常ではない物音がした。部屋に戻ってみると、シエラが口をパクパクさせて床に転げていた。

「それはさっき聞いたよ。」
サンドイッチの皿をヴィンセントのほうに押し出した。ユフィはトマトの挟まったのがどうも苦手ならしい。
「好きキライはよくない…」
ぶっと、膨らます頬は健康的で、穢れを知らぬ野バラのようだ。
「それで?その先だよ。」
こくりと頷くヴィンセントは、廊下でシドから聞いた話しを続けた。

――収納棚から何か取り出そうとして踏み台から転げ落ちたようだ。
助け起こした腕の中でシエラは気を失ってしまった。
みるみるうちに顔色が白くなり、薔薇の唇も色を失っていった。
バターのねっとりとした香り。
床に広がるミルクの白。
余熱完了を告げるオーブンのブザー。
部屋の隅にまで飛んでいった眼鏡。

「それで頭を強く打ったからだと…」
妙に沈んだヴィンセントの様子に、ユフィもつられてしんみりしてしまった。

玉ねぎをたっぷり抱えて、マスターが戻ってきた。
「ユフィさん、今夜はお泊まりですね。ハッシュド・ビーフにしようと思うのですが。」
いくらユフィでも、さすがに事の深刻さを感じたのだろう。好物の名を聞いていも、いつものようには喜ばなかった。
「うん、お鍋のものってたくさん作らないと美味しくないから嬉しいよ。クラウドとじゃあ、ほんのちょびーっとでさぁ。」
いま一つ元気のない声だが、ヴィンセントを落ちこませるには十分だった。
「マスター、電話借りるね。」
ばたばたと駆け出すユフィを見送るヴィンセントは、カウンターに残されたサンドイッチの皿に手を伸ばした。


 

つづき