Darkslategray

 

 

 

初めて会ったときの印象は、正直言って良くはなかった。
白衣に身をまとった彼女が、『お医者さん』のイメージそのものだったからだ。おまけに、話し方は数学の先生みたいに難しい言葉ばかり使う。何を言っているのか時々わからなくなるので、この人は違う星の言葉を話しているのではないか?と考えたぐらいだ。しかも、大人の女性というのはいつも身だしなみを整えてきちんとしているのだというイメージを、見事に打ち砕いてくれたのもあの女性だった。

彼女の名はルクレッツィア。

長くて美しい、大きなウエーヴのかかった髪を、いつも無造作に後ろで束ねていた。
研究室に何日もこもっていて、おしゃれどころか化粧すらする暇がないといつもぼやいていた。
彼女は、いつも急ぎ足で歩いていて、立ち止まることは少なかった。目的に向かって、まっすぐに突進してしまうような、一途な女性だった。歩き始めたら、決して後ろを振り向かない強さを持った女性だった・・・。

彼女を廊下で呼び止めると、いつも同じ台詞が返ってきた。
「何?用があるなら早くして!ヴィンセント。」
(用があるから呼んだのだが)と、用件を言う前にどやされるので、私はなるべく話を完結に済ませるように努めた。つまらない用事で呼び止めると、本当に怒鳴られるからだ。
彼女のことを表現しようとすると、『怖い』『きつい』『頭がいい』、などの、あまり女性に対しては誉め言葉ではない単語しか浮かばない。研究所の誰もが一目置く彼女のことが、例に漏れず、自分も苦手だった。

最初は苦手だったのに、そんな彼女をずっと目で追うようになったのはいつからだったか・・・。

いつの頃からだったか、彼女のほうから話し掛けてくれるようになった。
決して目立つ存在ではなかった自分のことを、気にかけてくれたのは彼女だけだった。忙しい研究の合間に二言三言言葉を交わす、それが何よりの楽しみになったのは、いつからだったか。
滅多に笑わない女性が、自分の前でかすかに微笑んでくれたのは、いつだったか。
ヴィンセント、と彼女に自分の名前を呼ばれるたびに、胸の奥が痛むようになったのはいつからだったか・・・・・・。


「今夜は心ここにあらずね。ヴィンセント。」
ふと自分の名前を呼ばれたことに気付き、はっとなる。今、自分はいきつけのバーのカウンターに座っていたのだった。
自分の名を呼んだのは、この店の女主人だった。今夜に限ってなぜあの人のことばかり思い出すのか・・・・・?
「おかわりを頼む・・・・・。」
ヴィンセントは静かにグラスを差し出した。
「はいどうぞ。そんなに女性の後姿ばかりじろじろ眺めるものではないわよ。」
「え・・・・・・・・・・・・・・?」
ふと自分の視線の先に気付く。二つ空いた隣の席に座った女性が斜めに座っているのでこちらに背を向けていた。ヴィンセントは先刻からずっとその後姿から目を離せずにいた。
その女性は緩くて大きなウエーヴがかかった長い髪を、無造作に後ろで束ねていた。
女主人の声で、自分のことを言われているのかと思ったのか、その女性はゆっくりとヴィンセントに視線を向けた。
50歳ぐらいのその女性は、一瞬、驚いたようにヴィンセントを見つめ、そしてすぐゆっくりとおじぎをした。
「私に何か?」
薄化粧の下には、確かに年齢が刻まれていた。黒に近いグレーの服が、どこか寂しげな印象を与えていた。
「いや・・・・・・。じろじろ見ているつもりはなかったが・・・・・・、申し訳なかった。おわびに一杯おごらせてほしいのだが・・・・・。」
「そんな・・・・。私のようなおばさんでよければいつまでも眺めていて構いませんよ。・・・・・・でも、そうね、せっかくだから頂こうかしら。・・・今夜会ったのも何かの縁かもしれませんし・・・・・。」

ヴィンセントは黙って頷いた。

「ヴィンセント・・・・さんとおっしゃいましたかしら?少しお話しても良いですか?」
「構いませんよ・・・。」
「あなたのようなお若い方から見れば・・・、私はどう見えるのかしらね。年を取るのは当たり前のことなのに・・・、今日はなんだか・・・。」
そう話しながら、彼女は斜めに顔を伏せた。長い髪に白い物が混じっているのが見えた。
「私ね・・・・・、娘を一人で育てたの。主人に先立たれてしまって、私が働かなくちゃ生きていけなくて・・・、炭鉱で働いたり、トラックの運転手をしたり・・・、あまり、女がやるような仕事ではないけど、いいお金になったから・・・、一生懸命働いて・・・、大変だった。でも、娘はその分、優しくて素直な気立てのいい子に育ってくれた。私のなによりの生きがいでね。・・・・・先日、結婚が決まったの。」
「それは・・・・喜ばしいことだ。」
「ええ・・・・、相手の方もとても優しい人で、ほっとしました。これで娘も幸せになれます・・・。ただ・・・・・。」
「ただ?」
「娘に『これからは自分の幸せを見つけてね、お母さん。たまにはおしゃれでもしなよ。』と言われて・・・、なんだか力が抜けてしまって・・・・。今まで、あの子のことばかり考えていて、自分のことなんて二の次、三の次でしたから・・・。ましてやおしゃれなんてこの年になって・・・・。」
「良い娘さんだ・・・・・・。」
ヴィンセントがそう言うと、その女性がくすっと笑った。
「変ね、私。なんでこんな話を初対面のあなたにしているのかしら?ましてや自分よりずっと若い人なのに。」
今度はヴィンセントが笑う番だった。
「実は私は50代半ばなんですよ。」
「まあ、冗談が上手ね。」


「ヴィンセントは冗談が上手ね。」
いつもそう言って彼女は笑った。
そのときだけ研究の手を休めてヴィンセントに視線をうつした。
「あと、コーヒーを入れるのが上手ね。・・・それ以外は、まあ、努力次第ね。」
「ひどいなあ、ルクレッツイア先生は。」
「先生は止めてって、いつも言っているでしょう?」
「だって、ぴったりじゃないですか。」
「それって誉めてるの?」
すねたように笑う、素顔の彼女は美しかった。

彼女から笑顔が消えたのは、いつからだったか。
彼女の笑顔を最後に見たのは、いつだったか。
あの研究に取り組み始めてから、彼女は笑わなくなった。いや、表情そのものがなくなってしまった。まるで取りつかれたかのように、彼女は研究に没頭し、彼女のいた研究室は一部の研究者を除いて立ち入り禁止になった。

彼女が壊れていくことに、なぜ気付かなかったのか・・・・・・。


「自分のやりたいことなんて、これから見つけられるのかしら・・・?」
呟くように、ヴィンセントに尋ねた。
「この年でおしゃれなんてしても、たいして変わりはしないのに・・・・・・。」
独り言のようなその話し方が、どこか寂しげだった。
「・・・一生懸命生きている女性は、それだけで充分美しい・・・・・・。」
それがヴィンセントに今言える精一杯の言葉だった。
「・・・・ありがとう。」
「貴方なら・・・・・、まだ間に合うだろう。」
「そう・・・・、そうかもしれない。今からでも、何か・・・・・。」
彼女は何かを思い出したように、ふと、一瞬だけ微笑んだ。
「不思議ね・・・、貴方には初めて会った気がしないの。・・・失礼よね。親子ほど年の離れた相手に向かって。」
「いや・・・・・・。」
ヴィンセントが、かつて憧れていた相手とそっくりなこと、名前まで同じであることを、彼女はあえて話そうとはしなかった。もう何十年も昔のことだ。彼に自分とそっくりな息子がいても何も不思議ではない。時には全てを明らかにするよりも、思い出は思い出のまま、蓋を開けずにいた方が良いこともある。そう、何も聞かないほうがいい・・・・。


強く見える女性ほど、グラスのように脆くて壊れやすい部分があることになぜ気付かなかったのか・・・・?
引き返したくとも引き返せないほど追い詰められていたことに、なぜ気付かなかったのか・・・・?
彼女の心は悲痛な叫びをあげていたのに・・・・・。
どうして彼女をさらって逃げようとしなかったのか・・・・・。
彼女が地獄に落ちていくのをただ黙って見ていることしか出来なかった無力な自分・・・・。誰も救えなかった無力な自分・・・・。
永すぎる懺悔の時間だけが私の償いなのか・・・・。


「ありがとう。少しは救われたわ。貴方のおかげで何か見つけられそうな気分になった。」
そう言うと、彼女は初めて笑顔を見せた。
ヴィンセントは少し驚いたように目の前の女性を見つめた。

「いや、救われたのは私の方だ・・・・・・・・・。」


あの人のことを、あの頃と同じ気持ちで想い続けることは難しい。
それが今の自分を尚更苦しめている。それすらも償いなのか?
だが、いつまでも忘れずにいることは可能だ。
いや、忘れられるはずが無い。
例え写真の中の彼女がセピア色に変わってしまったとしても、記憶の中の彼女が変わるはずなどないのだから。彼女以上の女性は、この世にいるはずなどないのだから。

未来永劫に・・・・・・・・・・。

fine