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祖母を介護する母のこと

やはり私は母と相性が悪いらしい。深すぎる愛情におぼれてしまうのだ。
冷静に分析すれば、いくつになっても子供は子供ということの表現なのだろうがそれは、もしかしたら「子離れできない」ということなのかなとも思う。
念仏のように「ケッコンせよせよ」と唱えつづけて、願いを叶えたというのに行動に一貫性がない。
自分の結婚観、というか、人生観に自信を持つのは結構だが、我が子もこれに当てはまらないと「しっかりしていない」と判断するのだ。
偏狭な愛情なのだろう。
それに従うような子なら、お互いは幸せだろう。
しかしそうはいかない。

子には子の価値観形成が必要なのだ。だって、先に死んでしまう(そのほうがやはり幸せ)人は、後に残す人が、独り立ちできるようにすることこそが責務なのだから。
判断基準は自分で持たなくてはならぬ、親に与えられた基準が、30年先の時代にあえばよいが。
いつの時代も変わらぬ愛情、などと表現するあれこれもあるが、やはり時代に合わなくなるのが普通だ。
自分で考えて行動する力を信じることこそが、大切となる。失敗しても、責任を取れるように、育てておくことが一番なのに。

「こんなこと、親しか言わないんやで」
という呪文も、冷静になるとしんみりしたものになる。
親自身の経験によってのみもたらされた意見の場合も多い。誰の立場で、つまり、子のために、本当にそうなのか、冷静に聞くと首をかしげるようなことも多い。

母が実母を介護して、もう長い時間がたつが周りが見えなくなりつつある。というよりは、耳が聞こえなくなってくるようである。
聞こえないというよりか、聞かない、聞いていない。
そして、親に尽くす自分にいささか酔っている。
長男の嫁にすべてを背負わせることを回避しているが、かわりに自分が担いでる。
それを指摘する娘の言葉が「聞けない」ようになってきた。
娘(=私)が発する言葉は、子供のそれにしか聞こえないのだろう。
「そんな理屈ばっかりでうまくいくものか」とか言うが、自分がふらふらになっていることには目が行っていない。認めないだろう。母自身が納得するまで、続けるだろう。果たしてそれは、祖母にとって利益か?「意地介護」になっていないか?

祖母「すまんなぁ、おまえにばっかり世話になって」
母「ええんよ、そんなこと」

この会話が、母に満足を与えているとしたらこわい。

それゆえか、施設介護を「姥捨て」のように考えている発言も目立つ。
祖母の願いは友達との交流が続いていること、ネコと一緒に暮らせること。
母も、それを聞きいれている。だから、施設には行かせたくないし、もっともベッドに空きはない。

尊厳ある老いという理想を考える。最後まで願いどおりに生きることと思われているが同意できない。
ひとつずつ、できなくなっていくことをいかに受け入れていくか、それこそが「尊厳ある老い」とは思わないのだろうか。
手を借りなければできない、ではなくて「手を貸してもらったらできる」のは喜ばしいことだと思うが。
子供がダダをこねるように、自分の希望を押し通そうとしているのは、祖母よりむしろ母かもしれないと、このごろ思う。すでに老いの域に踏み入れたとも考えられる。いつまでも我が子を、子ども扱いするのも、ある種「老い」だと思う。相手を客観的に観察して評価するのは、大人の物の見方だとすれば、そうも言える。

衰えない人はいない。
できなくなって、何が悪いのだろう。
できないのに、できる、と気張るのは、度を越すと醜い。

介護は利用者の利益にとどまらず、介護者の利益も考えてゆかないとならないことだ。
理由は「いつまで続くか誰にもわからない」からだ。

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